ここ数年アドラー心理学がブームになったからでしょうか、
《承認欲求》はかなり肩身が狭くなってしまったようです。
いくら肩身が狭くなったとしても(⁈)多かれ少なかれ誰にでも承認欲求は存在します。
本来、承認欲求そのものが"悪い"というわけではありません。
それなのに他者からの承認を求める気持ちに対して否定的な見解があるのは、強い承認欲求に心が囚われてしまうと、とどのつまり幸福感が得られないからです。
人間は色んな欲求がありますよね。
どんな欲求も過度になるとネガティブな状態を引き起こすことが多いものですが、こと承認欲求に関しては
『周囲の意見を気にするあまり、自分の本音がわからない』
『他者から常に評価を感じられないと生きられない』
『偽装してでも認めさせたい』
という程に過度なものになる場合があります。
そうなると、承認欲求で得られる喜びよりも他者の反応によるプレッシャーや不満の方が増えてしまいます。
そんなプレッシャーなどを感じてまでも他者からの承認を求め続けてしまうのは、自己肯定感に飢えている心の飢餓感が原因です。
ですので、問題になるのは承認欲求そのものと言うよりも、
自己肯定感を他者からの承認のみで満たそうとする依存心です。
自らを肯定できる意識が全くない状態で他者からの承認を得る事に専念すると、
『もっと、もっと!』という気持ちが続きます。
なぜなら、自己肯定感は読んで字の如く
自己肯定感なので、他者から肯定される事はあくまでも栄養剤のようなものです。
ここで少し話は逸れますが
例えば、お年寄りに席を譲るという行為において、譲った人の心が
『人前で好印象を得られるから』という偽善で譲っても、純粋に『お年寄りへの思いやりの心』で譲っても、一見すると行動自体は同じなのでその真意は他者にはわかりません。
その行為を見ていた人に関しても同様に、
『優しい人ね』
『人目を気にして譲ったんだわ』
『譲るのは当たり前だよ』
『いいカッコしやがって』
など、微笑んでいようが無表情であろうが、見ていた人の心がどう判断しているかはわかりません。
そんな状況下において、 他者からの承認欲求目的で行動した人は対象となるお年寄りや周囲の方の反応が気になります。
微笑みを確認できれば自分の心は満たされ、拒絶や冷たい視線を感じれば不快になります。
思いやりの心から行動した人の場合は、自分の生き方として自然に行動しているので、人の反応は気になりません。
あくまでも自分の心がお年寄りへの思いやり(愛)からした事だとわかっているのでその気持ちを他人に承認してもらう必要も、証明する必要もありません。仮にその行為を断られたとしても『迷惑だったかな』と考えることもなく、自分の善意を自然と肯定できているので、迷惑になったというような捉え方はしません。
承認欲求が強い人は、自分を肯定するには他者からの評価ありきだと無意識に思っていますが、
上記の例えのように、人の本音はわかりません。知り得るのは自分の心情や価値観です。
ですから、周囲から常に評価されるような資質を持ち完璧だと思われるような方であっても自己肯定感が低い方は存在しますし、人から羨まれるような容姿や特技などがなく、特に大きな評価を得た事がない方であっても自己肯定感が高い方は存在します。
他者から見た自分がどのように認識されていても、
最終的に自分を肯定できるかどうかの判断をしているのはあくまでも自分自身だからですよね。
という事は、真の自己肯定感を得るには他者からの承認よりも自分との信頼関係の積み重ねの方が大事であるという事です。
人は一人では生きられません。どんな形であれ人と関わりながら生きています。
それがゆえに自分以外の他者の存在が気になり、承認を望むのも自然な事です。
ただ、他者の評価は真実の自分の気持ちと一致していない事も多くなります。
嬉しい評価に対して素直に喜びとして受け入れる事ができ、悪評に振り回されない心であるには、
少しづつでも自分が本当に大事にしたい価値観や心情からの生き方を選択する事です。
それによって自然と自己肯定感は育ち、人の価値観に支配されない自由な心で生きていけるようになるでしょう。
2020 / 4 / 23 kyoko